昭和40年9月18日 月次祭



いつもお話をさせて頂きます「うー」たんびに、思うのでございますけれども、この、私が頂いた、「えー」、御教え、神様から頂いた御理解を、皆さんが、どうぞ皆さんの、血になり、肉になり、皆さんの信心の一つの手引きと、信心を進めていくための、基にならなければならんということを。そして、そういうような思い方でお話を、させて頂きましても、これは、始まらんということが分かっておりましても、やっぱり神様から頂きましては、そうどころじゃないなあと、そうじゃと。自分で合点することが、あるとです。どうでも、そういうように皆さんにも思ってもらいたい、分かってもらいたいという気が、強くするんですね。ですから、もう、先生がどうしても分からせようとしてござるとじゃけん、一つこっちも、分からないけんというふうに、なって下さりゃ良いのだけれども、また、それがそういう訳にはいかん。「ね」。とにかく、皆さんが分かるのじゃない、私自身が、分かればいいのである。私の口を持って、こうやって神様が、お話を伝えてくださるんだけれども、それは、大坪総一郎その人に、与えて下さっている御理解なんだ、お話なんだと。そう思うて、「えー」。話させてもらい、説かせて頂いたらいいんです。皆さんが、眠ろうが、分かるまいが、「あっはっは」、良いんですね。ところが、そこが、人情なんですよ。「ね」。この話を分かったらおかげを頂けるのに、この話がわかったら、お徳が受けられるのに。と、思うとつい、そういう風に思うんですけれども、まあ、そこんところをです。せめて、半分半分ぐらいの思いを持ってです。皆さんでもそうです。今日の御理解を、誰それに聞かせたかったなと。言うのではなくて、なるほど、息子にも、嫁にも聞かせたかった。けれども、一番頂かねばならなかったのは、私であったと言うくらいな、思いでね、頂かれますと、それが、皆さんの、血、肉になると思うんです。「ね」。どうでも一つ、人に聞かせる話ではなくて、自分が頂くお話。説いておる私自身も、皆さんにではない、私自身がそれを頂かねばならないということ。
今日も、丁度、午前中あの、山口の(たきび)というところの、教会の先生が、いつもお参りになります。そちらから、今日はあの、ご建築費を送ってきたんです。現金書留で。中に、手紙が入れてあった。ま、それに、本当に、お参りもせずに、こんな御願いをしてはいけんのですけれどもというて、箇条書きにその、色々と御願いがしてある。いよいよ、あーこの、10月には、御本部大祭でございますが、先生、どうぞこれは私の念願でございます。せめて山口のたきび教会から、もう、汽車一車両ぐらいは、お参りの出来るようなおかげを頂きたいと、どうぞこのことを、神様にお取次ぎください、御願いしてくださいということが、書いてあった。やっぱり金光様の先生ともなればです。やはりその、十人参るよりは、二十人。二十人参るよりもやはり一車両の、私は思うとる。もう、本当に、九州の、団体がです。「ね」、もう本当に、私は、まあだ大きな事を考えておる。御願い。けれど私は、それは願わん。「ね」。そら、ほんとに一車両じゃない、一列車借り切りましても、七、八百人、千人足らずのものが参れば、一列車編成が出来る。「ね」、大したことはない。神様のお働きを持ってすれば。「ね」。私は、そういう願いを持っておるけれども、それを願うたことはない。そこで、私、あのう、一車両、信者が御本部参拝が出来ますようにという願いよりも、「んんん」。「ね」。私の力限りのものが、私の喜びを受けてくれておる信者だけが、「ね」。現在十人おれば、それが、二十人、二十人おれば、五十人のものが、その喜びを分けて、こんでくれるような信者が、行けるために、もっと、もっと先生、あなた自身が喜びを、貴方の心の中にたたえ、しかもそれが、溢れるようにならなければいけんのですよということを、言うてやろうと思っている。皆さんでも、そうです。それこそ、おかげのほうだけは、超の付くようなおかげを頂きたい。それこそ夢にも思わなかったような。信心しよりゃ、今に、こんなおかげ、夢のようなおかげを頂けるだろうというようなその、しかもそれを、頂きたいと願っておる。「ね」。そんなら信心のほうも一つ、超の付くような信心をさせてもらわにゃいけないと。「ね」。
今日、久留米の、川村さんがお参りさせて頂いてから、先日、飯塚の教会におかげ頂いた。東飯塚ですよね。古賀先生が、あの、親教会、大久保先生ところ、それで、勿論、あちらの教会に、お参りする何もないのだけれど、あちら行ったら、古賀先生とお会いが出来る。古賀先生の様子を帰って、椛目で先生に伝えりゃ、先生が喜ばっしゃると。というような気持ちでお参りをするらしいんです。ところがその、古賀先生がいないもんですから、どうしたことだろうかと思うとった。そうしたら、御結界に、親先生が御結界にお付になった。そして、一時間半あまり、お参りしておる人のために、御理解を下さった。その中にです。この頃から、また例の子が、喘息が起こった。それで、その医者にかかって、今日は、医者にいっとると、こう言われた。「あー、そうですか」。やっぱ、一時間半も聞きよるうちに、この、古賀先生が、帰ってきたわけなんです。私は、そんな話を聞かせていただきながら、はあー、もう、これでしまえたと思うたんです。「ね」。二年間も椛目で修行させてもろうて、本当に、もう、もう息が切れるような状態の中からおかげを頂いて、「ね」。医者もかかりません。薬も飲みませんと。神様にそのお薬を供えさせて頂いたその日から、「ね」。おかげを、それこそ紙をはぐようなではない、もうごろごろおかげを頂いて、「ね」。そのことを神様にお届けさせて頂いたら、「ね」。私の神願に、(せんぼんかお?)を見せてくださった。そして、これによってです。千人力の力を頂くと言うて、神様は喜んでくださった。その、度胸に。「ね」。古賀先生が一番初めに、ここに、ご縁を頂きますときに、「ね」。現在の医学では、もう、どうにも出来ない病気であると。肺に穴がほげておるという病気である。その上、七つのときから起きておるというその、喘息が現在に至っておるのでおるから、「ね」。それこそ、もう、久留米のいうなら、すたれ者。そのすたれ者である古賀先生が、御道の教師の資格を取らせてもらい、そして、身体が悪いために断念して、もう、意気消沈しておるところに、椛目の話を頂いて、椛目に初めてご縁を頂いたときに、古賀先生、勿体ないなあと、私が申しました。折角、そういう素晴らしいです。「ね」。言うなら、商売をさしてもらうのに、元手がなからなきゃ出きんようにです。布教にでも出させて頂くならばです。「ね」。やはり元手無しには出来んよ。は、ばってん、私は、こげな病気じゃったけれども、今の医学は進んでから、大したことですばい。どこどこの病院では良うなったと言うようなことでは、人は助からんよと、私は言いました。「ね」。あそこをお取次ぎを頂いて、こういうお知らせを頂いて、こういう元気が出て、おかげを頂かせていただいたのも自分のせい、こうして御用が出来るようになったという様なおかげを頂いたということになったら、「ね」。貴方のような、難儀な人達が、貴方の周囲にドンドン助かっていくだろう。いうならば、商売をさせて頂くのに元手がいるように、布教に出させて頂くなら、その元手が、力が要るのだ。その元手をいま、神様が下さろうとしているのを、貴方が病院に行くということになったら、その神様の下さろうとする、その元手を何もかんも無くしてしまうようなことではないか。惜しいことだと。それが分かった。親子のもののそこが分かった。そして、まあ、本気で椛目で修行させて頂こうと言うて、二年間おかげを頂いた。都合で、また親教会の飯塚まで帰らせてもろうた。しばらくおかげ頂いておったんだけれども、最近、喘息がまた起こった。そしたら、まあ、いうならばお医者通いをしておると、こういうことである。まあ、いうなら私の信心は、何か切り刻みしたごたる気もさえした。同時に、もうこれで、古賀先生とのもう、縁も切れたなとも思うた。いうなら、神様は寛大ですねえ。私の心願に「寛」という字を頂いた。寛大。ウ冠に、そして、草冠を書いて、見ると書いてある。「ね」。私が、しまえたと思えば、もうほんとに、しまえるのである。もう、私と縁が切れたなと思うたら、もう本当に、切れるのである。そこをもう一つ大きな心で、祈ってやれ、取り次いでやれという、神様の御神意である。そういうことも、「ね」。おかげは、いわば、超特大のおかげを頂きたい。なるほど、それは、飯塚で御教導を受けておるそれの方が、誰でもがです、道理にあうごとある。「ね」。合理的である。身体が悪かったら、医者にかかる。私は、医者にかかったらならんというのではない。「ね」。注射一本だって、薬一服だって、天地の親神様のおかげ無しには、出来んのであるから、そこんところを本当に、分からせて頂いて、全快のおかげを頂いたときにです。あの薬は効いたと思わずに、神様のおかげが効いたというふうになってくるようになったらです、問題はないのである。事実がそうなんだから。けれども、おかげを頂きまして、有難うございましたというくらいなことで、本当におかげを、いわば、おかげとして、実感することも、それを力にすることも出来んというのでは惜しい。そこで、ここではです、私がいつも、申しておりますようにです。私は、合理的な信心では出来んと。超合理的な信心をしなければいけない。「ね」。もう一つ大きな信心である。ですからそれは、信心の薄いものでは分からない。「ね」。そういうことになるんです。おかげの方は、超のつくようなおかげを頂きたいけれども、信心の方は、それほど、「ね」。ただ、自分の見やすいほうに、自分の思うとおりになることだけが、おかげのように思うておるというようでは、おかげにならない。只今も、お祭りを奉仕させて頂いて、二階の方に、控えておりましたら、長男がやってまいりましてから、今度の、御霊様のお祭りのことを言う。この、23日は、御霊様のお祭りです。一時から。どうぞまた、おかげ頂かねばなりませんが、御霊のお祭りには、時間が長くかかりますから、神饌なんかは、先にしておったらどうでしょうかと。そすと、それだけ時間が楽になる。信者さんも楽である。先生方も楽。「ね」。それもいい。けれども、お父さんの考えはねえ、本当言うたら、一時間かかるなら、一時間半。一時間かかっても、二時間かかっても良いと思っとる。「ね」。それは、あんたが言うことは、なかなか合理的だけれども、ところが、合理的な信心ばっかりしよったら、おかげにゃならんぞと、私が言うた。「ね」。例えば、信者が、一時間半お供えするよりも、二時間お供えしたほうが、信者がおかげ頂くんじゃ。二時間の時間をお供えするよりも、少しは、少々退屈しても、「ね」。やっとかっとであっても、二時間というものをお供えするならば、一時間半お供えするよりも、二時間、時間を神様の前に費やした方が、おかげ頂くのじゃ。ここんにきは、合理的なようではあるけれども、あんたの言うその、合理的なことでは、いわば、合理的なおかげしかいただけんぞと。皆が願うておるのはね、やはり、こげな大きなおかげを願っておる。超の付くようなおかげを願っているのであるから、そのおかげを頂いてもらう為には、そこんとこが分からにゃいけんぞと言うて、ま、今日の御祈念講習会のことを話した。
毎日、若先生、先唱で、十時から、十一時、今日のような場合なんかは、丁度十一時十五分ぐらいまでかかった。「ね」。大祓いを五版、一生懸命でです、念を入れてあげて御覧なさい、丁度一時間かかります。大祓いを五巻。「ね」、ですからもう、家族中のものは言うに及ばず、それに一時間の間にお参りしなさった人は、皆、私は、御結界に座っているんだけれども、一生懸命、御祈念があっているもんですから、その、帰るわけにはいかん。それで、何とはなしに御祈念いただいて、ある人は、あー、待ちくたびれるような気持ちをする人もあろう、ほんとに、若先生の御祈念を頂いて有難かったと言うて、帰る人もある。段々そういう人達が多くなってから、は、十時からなら、若先生の御祈念が頂けるんだというて、お参りしてくる人も、段々増えてきた。「ね」。けれども私です、もう、五巻も一生懸命で上げたりしますとですね、もう、疲れてくるです。三段目ぐらいから。で、私はあそこでまた、気合を入れてから、私がその、応援をするんです。「ね」。応援ちゃ、「フレー、フレー」ち、言う訳じゃ(笑い)ありませんたいね。あそこから。(一同笑い)もう、気合を入れます。私は、思うんですけどね。今ここで修行しておる方達は、若先生の教導を受けとるから、幸せだと思うんです。例えば、これだけ沢山おりますけれど、言うなら、そのう、中野さんやら、あっちの人達の長男、徹さんがしこの、ここで御祈念をしようたっちゃ、だーれも、しきるもんはおりまっせんよ。ま、言うならば神山先生一人ぐらいのもんじゃろうと私は思います。「ね」。もう、腹のどん底から。しかもそれこそ、もう、なんともいえんその大祓いのごつなってまいっておる。「ね」。ですからもう、一人でも、朗々として、大祓いをあげることが出来る。もう、あれは、あげておる間だけでも、おかげ頂いておるですね、あれは。それはそん時なりに済んではいけないのですけれども、「ね」。やはりそれは、一つ信心の、基礎を作るときには、それが大事なのです。私共、神様の前で、大祓いを二巻とあげようと思いません。昔はそれこそ、何十巻とあげたことがあったんですけれど。もう、ここ十五年間というものは、私、御神前に座ったら、大祓いは一巻に決めておる。その代わり、一巻の中にも本当に、万感を込めて、あげさせて頂くことにしておる。その代わり、私冬でも一巻上げたら、あのう、御本部の奥城ででも、汗がすたすた落ちるくらいにある。大きな声出すわけではないけれども、これに、力が入るから。「ね」。そういう、いうならば、一巻で済むだけのおかげを頂くための、献行為をなされておるわけなのである。けども、私は、一時間の間にお参りしてくる人達がです、あいだにゃ、まあだ済まんじゃろうか、まあだ済まんじゃろうかと思うてる人が、よう分かる。ここで、私が。それで、まあ、二巻か、三巻ぐらいにしてから、午前中と、午後からと、二遍づつぐらいにしたなら、どうだろうかと私は思うた。そしたら、御心眼にですね、大きな西瓜をこう、切ったという。そしてその、種だけをこう、えぐってあるところを頂いた。御心眼に。西瓜の、西瓜といやあ、西瓜の行というから、もう、一生懸命の修行ということでしょうね。西瓜。水の行でも火の行でもいとわんというようにです。それこそあの、今、(      ?      )西瓜の行にも等しいような行なのである。皆さんも、西瓜食べられるとき思われるような事はないでしょううか。ほんに、この西瓜に、種がなからにゃ、さぞ良かろち。ガブガブ食べれる。もう、面倒くさか。ほんなごつ種なんかは。もう、わけ(若い)もんでも、種どん出さんなり食ぶるけれども、それじゃいかんです。(一同笑い)「ね」。(笑い)この西瓜食べるときに、種がなからにゃ、さぞよかろと思うてから、食べるような人達が多いだろうと思うようにです。修行にもです。西瓜の行とでもなってくるとです。その、辛いと思うことが良いことである。わずらわしいと思うことを押してすることが、修行である。と、いう御理解を頂いて、なるほどと私は、合点が行く。「ね」。誰でも合点するのは一緒、それはもう、若先生どもはですね、それは、もう、一巻上げる間の、そらあ、親の私が聞き惚れるごとある。もう、とても本当に大した御祈念です。「ね」。ですから、一巻目でスキット、辞めたらもうほんと、本当にスキットした御祈念が、出来そうにあるんだけれども、それが、どこまでも、修行でさせて頂いているということであれば、「ね」。はあ、今日はもう、三巻で辞めようごとあっても、やはり、五巻と決めたら五巻をやりぬかせて頂かねば、三巻目、四巻目は少しはだれても、「ね」。そこんとこを、気合を入れてから、五巻を成就させて頂くというところにです、修行の値打ちがあるのである。「ね」。合理的なこといやあ、本当に、その、種のない西瓜どん作れたら、さぞ良かろと思う。「ね」。西瓜に種がなかったら、さぞ良かろと思うんだけれども、それでは、私は、本当の修行にはならんのだと思うのです。
昔の、先生方の言葉の中に、これは、もう、先生方の体験がうんだ言葉なんです。皆が、同じことを言われる。それは、どういうことかというと、「おかげの後先を大事にしろ」と、こう仰る。おかげの後先を大事にせにゃいかん。皆さんが、まあ、おかげを頂くまでは一生懸命になる人が、大体多いんですけれども、おかげを頂いてしまうと、それをおろそかにする向きがある。今日、私、御神前にやらせて頂いたらね、冥加の花を頂いた。ご神前で。今日だったか、昨日だったか、新聞を見せて頂きよったらその、あれは、この辺のものは、冥加の花ち、いうけれども、一般には、あれは、冥加の子というらしいね。小さい、今あるでしょ。あれは、冥加の花というけれど、あれは、冥加の子げな。あれは、冥加の子なんです。それに上に、リボンのような黄色いはなが咲くでしょ、あれが、冥加の花なんです。「ね」。みなさん、ご承知でしょう。冥加の花が咲くと、中が、ウドになるということ。堅くしておったのがね、花が咲くと、それだけ、ぼわぼわするごつなる。勿論、今日私、新聞で見てから、読んだんだけれども、風味がなくなると書いてあった。ちょっと知らんもんじゃけん、もう、花の咲いとるけん、花を摘みきってから、使いよるごたるけれども、大体は、花の咲かん先がいいんですね、あれは。冥加ということは、いつも私が言うように、冥加のお知らせは、喜びの妙と書いてある。「ね」。喜びの妙なんです。喜びが生まれる。信心さしてもらいよったら、一年一年有難うなってくると、こう仰る。一年一年有難う成って行くような信心せにゃいかん。五年しよるばってん、五年参ってきよるうちに、別にその、喜びが育っていないならば、あんたの信心は、そら稽古しよるんじゃない、ただの、参りよるだけなんです。ただ、おかげを頂くもんじゃけん、ただ、おかげに釣られて、参って行きよるだけなんです。これでは、あの世に持っていくものは、なあーんも、ありゃしません。「ね」。この世に、極楽を開いていかなきゃ、あの世に極楽があるかと、教祖の神様がおっしゃっておられるように、この世で、有難いという気持ちを開いておかずして、あの世で、どうして極楽があるものか。「ね」。その、喜びをです。私は、楽しみに、喜びが、育っていくことを楽しみに、しかもその喜びには、必ず、おかげが伴うてくるのである。けれどもここに、分からせてもらわなければならないことは、そのおかげにはです。「ね」。花は、いうならおかげのようなものである。花が、実りになり、徳になるというところまでにはです、「ね」。おかげを受けた、冥加がでけた、花が咲いた、おかげを受けた、中はもう、うつろになっているということ。三年前には、こげな喜びを感じよったけれども、そげな喜びがもう、自分のものになってしもうとるごと思うとると、大間違いだということになるです。もう、限りがないまである。おかげを限りなく受けていくためにはです、信心もやはり、だから、限りなく、回転していくようなおかげになってこなければならないということなんです。そこんところをやはり、教祖の神様は、一生が修行じゃと、こう仰る。修行というのは、例えて申しますならば、「ね」。やはり、西瓜に、種がなかったら、さぞよかろというような信心では、修行にならないことが分かる。けれども、あの喜びを頂かせてもらおうという楽しみがです。その、修行もまた、有難いのである。
そこで、私共が、思うんですけれども、こうやって、ほんなら、お伝えさせていただいとる私が、なるほど、神様から頂いた言葉から、皆さんに聞いてもろうたんだけれど、「ね」。その聞いてもろうたこと、いうならば、神様が私に教えて下さった事を、また、皆さんに教えているわけであるけれども、教えておる事を、皆さんが分からんと、分かってくれるようにと、その願いもあるけれども、実は、私自身がそのことを、分からせて頂かなければならないということ。そして、(たきび)の先生に私が、書き送ろうと思うておるようにです。自分でおかげを限定しちゃならん。「ね」。一車両があれは、七十名ぐらいですかね。たきびの先生は、あの、中野先生ちいう。「中野先生あなた七十名ぐらいでよかの」ち言う。いうごたるおかげ。「ネ」、だからもう、神様は、もう、無尽蔵、もう、限りなくおかげを下さろうとしてあるから、もう、限りないおかげを頂くために、私共は、心の中に信心が限りなく育っていかなければならない。その、限りなく育っていくおかげというのは、心の中に限りなく、喜びが生まれてくるという信心。より、一年一年有難うなってくるという信心。そういう信心をさせて頂くために、おかげを頂かねばならない。
先日、うー、原鶴の六宝館で、総会が開かれた。あと、布教認可の祝賀会が催された。もう、終日大変感激裏の中に、えー、おかげを頂きましたんですけれど、丁度、七十六名集まりました。あそこの大広間がもう、ぎっしりでした。段々、いわば、宴がたけなわになってまいります、「ね」。最後の祝賀会になりますと、また、お神酒がまわってまいりますと、歌の一つもでる。踊りの好きな人は、踊りも踊る。「ね」。いわゆるその、浮いた浮いたになってくる訳です。「ね」。おかげなんですよ。私は、酒飲んでから人が歌いよるときにもう、ぶつっとした顔をしとる人を見ると、この人は、おかげを受けられん人だなあと思うです。皆が、有難い、有難いと言うとっても、その人は、有難くならない人なんですから、そういう人は。「ね」。ずーっと酒どん飲んでから、黙って腹かいたごつして(笑い)飲みよる人がおる。そういう人がおるですよ、やはり。やっぱおかげいただけん、なかなか頂きにくい人ですよ。「ね」。例えば、酒は飲まんでも、それこそ、おー、その、あーこりゃこりゃでもって、手どん叩きよるならですね、もう、酒は飲みよらんでん、こっちも、浮き浮きして、手でも一丁叩こうごつなってくるのが、ほんなごっちゃんね。大体。もう、こっちまでも酔うたごつなってくる。これでもそのう、大祭なんかには、もう、感激の坩堝に化してしまう。もう、とにかく喜びの固まりになってしまう。初めて参ってきた人たちも、その喜びに、本当に、酔うてしまうんだと。信心とは、有難いもんだなあという。「ね」。ですから、その、飲まないでも酔わねばならない雰囲気にあってはです、「もう、ほんとに馬鹿どんが、歌どみ歌っておる気持ちが知れん」というごたる話でから、(一同笑い)いや、ほんと、あるです、そげな人が。もう、人が賑おうとるとが、腹ん立つごたる。(笑い)「ね」。だから、そういうような、椛目の人たちはね、殆どがね、もう堅くならんほうが好きのごたるですけんど、すぐこっば、浮いた浮いたに成って行くほうですもんね、大体が。始めは、いいや、とか何とか言いよるばってん、てんで、一丁やったら、もう、でんでもう、我先に出て行って歌うごつなって来る人が大体多い。あれは、椛目的です。だから、おかげを頂きやすい人達だと、こう思うのです。「ね」。ところが、そういう人達がですね、ここに、一つわからにゃならんこつがある。「ね」。ほらもう、今度はあそこで、もう、御祈念してから、帰るときに、自動車の中でっちゃ、その、余韻がのこっとるわけなんです。ほら、家帰ったっちゃ、それこそもう、その、嫁ごさんに、聞いてもらわにゃという人達もおる。良いんです、それは。「ね」。いいけれどもですね、私は、その晩帰ってから、御祈念させてもらいよりましたらね。あのう、京都の何とかというところの、見事なお寺さんの建築。そこへあの、釘隠しというのがあるですね。丁度、菊の花のね、こうなんか、真鍮かなんかで出来たやつ。釘を打ち込んであるですね、その上から、飾りに、釘を隠すために、こう、打ってある金具があるんです。今頃の建築には、あんなものは、あんまり使いませんですがね。昔の建築。それを私が頂くんですよ。ははあ、打ち込んだ後にはこの、釘隠しがいるんだなということです。「ね」。先ほどから申しておりますようにです。例えば、今は何ですけれども、あの、暑いときなんかは、ここで、先生方が皆御祈念をしておりましても、びっしょりになるです。やっぱ一時間御祈念いたしますと。そしたらもう、今日は御祈念が済んだちもう、言うて、今日一日もう、済んでしもうたごたる気持ちのするごたるじゃん。もう、ほんとに、良か気色になってから、もう水どん掛かったごたるふうでですね。もう、今日一日の修行は済んだというごたるふうでその、おー、しとるです。あそこんにきを、おかげ頂く人は、大事にするですね。その、汗の出たその後を大事にするですね。これが、打ち込んだ後に、釘隠しをしとかないとです。「ね」。打ち込んだけど、後はぱっとしとる。それでは、惜しいです。「ね」。修行だけのことではない、例えば、ほんなら、なるときには( 少し途切れてます )
には、ほんとに一緒になって、おーッというのがいるんだけれど、その締めくくりが出来たら、後はもう、ぴしゃっと、はあ、今日はほんに有難い一日だったというものがです、この感覚、釘隠しなんです。「ね」。信心を進めていく上には、それが、例えば、朝の御祈念にお参りしたら、もう一日の信心なもう済んだように思う。それから先が、大事なんです。お話を聞いて有難かった、それから先が大事なものです。「ね」。御月次祭に打ち込んだ。打ち込んだだけではいけん。それが有難い、いわば椛目的な、菊の花のその釘隠しでそれが、打ち込んだあとが、また飾れれるようなおかげを頂かなければ、それが、本当の血肉にはなっていかん。ただ、聞き流し、頂き流しでは惜しいんだということ。
いよいよ、御霊様の、お祭りが近づいて参りましたから、御霊様関係のことが、色々あります。御霊様の働きが始まってくるんですよね。今日、もう椛目に二、三年打ち込んで、親子三人で参ってくる方がある。ある教会の御信者さんなんですけれど。ご兄弟がある教会の教会長をしておられます。先日から、見えてから、「あんた椛目に、一生懸命参りよるげなが、御霊様でん、何でん、椛目に預けとるげなの。そげなことじゃ、御霊様が泣かっしゃる」そげな道を間違えることするならば、とにかくおかげ落とすけん、見よってみ、ち、言うごたるふうでその、その先生が仰った。その方の姉さんに当たる方なんですね。それで、その方が、椛目で頂いておる御理解を、「あんた、金光様の先生するもんが、そんくらいのことが、まあだ分かっとらんの」ち、言うてから、話させて頂いた。「ね」。私共が二、三年前の苦労、何十年なるごと信心ばさせてもらいよる。けれど、あの、二、三年前の私共のあの、家の中のあんた、雰囲気を知っとろがと。いわゆる私共の家の中の雰囲気と、今日の、雰囲気をあんたが見てから聞いて、感じるだろう。私は、本当に、何十年しとっても、金光様の信心とは、助かることは出来んと思うたから、もう、他の宗旨、宗派にでも乗り換えようかと思うておるところへ、椛目にご縁を頂いて、お話を頂けば、頂くほど、これが、本当の金光様と分からせて頂いて、私が、一生懸命にお参りするようになり、私が、おかげを頂くようになったら、第一、兄の、澄夫が付いてくる様になった。中学校の先生をしておる、また、次の娘も付いてくるようになった。そして、やはりなるほど、お母さん、これは、私共、三人が椛目の親先生のおかげを頂いて、お取次ぎを頂いてから、これだけのおかげを頂いてきたのであるから、私共ばっかりが、助かったちゃいかんばい、そら、御霊様も、どうでんこうでんあちらに、御願いしようじゃんのと言うて、話、一決してから、親先生に御願いしたよって。私共が助かりゃ、御霊が助かる。御霊が助かりゃ、私共が助かる。椛目の親先生はそげん仰るが、あんたどんは、みちみちということは、どげなふうにあふれとるかと言うてから、話した。だまーって、聞きござった。あんたが、そげん言やあ、やっぱそげんでもあるばってんが、問題は、だから、助からにゃいかん。あんたが、どうでんこうでん、一丁おかげ頂かんのと言うて、言うてきましたけど、さあ、言うた事は言うたもんの、先生やっぱ、あと金光様の先生からいわれたもんじゃけ、気持ちの悪かち、言うわけです。ですけん、どうでも一丁御霊様の助かりなさるごつ、今度の御霊様のお祭りには、しっかり先生御願いしてくださいち、言うてきてから、あちらの、御霊様の、何ちいうたか、おー、送り名を全部こう、纏めたご本がございますよね。それをあの、拝まして貰うわけなんです。それを全部、今日は持って見えましてから、もう、これだけ私共の御霊が居りますとじゃけん、これを全部一つ、こちらの御台帳に、あの、書き写して頂いてから、どうぞ全部が、おかげ頂くようにと言うて、ま、持って見えられた。その通りなんです。私共の助かりがです、御霊の助かりにならん筈がありません。「ね」。私共が、例えばお取次ぎを頂いて、先日熊本の、ここの神様が仰る、ここは、椛目の出社ぞと仰る。人が、ドンドン集まってきて、どんどん人が助かる。神様から御理解を頂く。その御理解を説かして頂くというのは、それこそ、(      ?      )それで人が、段々だん集まってくる。丁度ああして、五人集まっているところへですね。その五人の人達の、先祖の御霊様の、おー、慰霊祭をすることを神様から頂いた。それでその、ご家族の方たちがです、その、そこんところで、皆で、合同で、別に貴方、金光様の先生の資格取ってるでもなし、どげんしてお祭りを使えていいやら、術さえ分からない人だけれどもです。真心を込めて、金光大神のお取次ぎを頂いて、親先生、只今から、親先生の御徳で、御霊のお祭りをさせて頂きますからと言うて、そのためのお祭りに仕えた。「ね」。そして、その方の、お礼にあくる日、出て参りましたが、その御霊の祭りに向けた一人の信者が、やっぱりお参りをしてきておる。丁度、長男がご奉仕させて頂いておった。あの、夕べの御祈念にですね。「んん」。親先生が、御霊様の御挨拶なさって見えたら、いつも、祖先賛辞だけしか上がらんのに、いー、天地書付が上がった。「ね」。そして、御理解にです。今日は、御霊様が、丁度、30名あまりの御霊様が、ここに御挨拶に見えとったんですよと言う、ご理解だったんですよ、村上さんと言うて、今日のお話です。しかもその、御霊様がですね、30名だったそうですよと言ったら、もう、村上さんがもう、ここへ平身低頭してですね、もう、恐れいりましたと。ご家族の御霊様が、31名だったそうな。「ね」。もう、本当におかげを頂きました、もう、本当に御霊様が助かったというその、実感がですね、村上さんが、出てきてから、それを感じたんです。だから、近所総じて確かにあの御霊様もです、ね、例えば、ほんなら、金光大神なら金光大神を、親先生なら親先生の御徳によってです、難儀の苦しい中にあるのをです、いわば、楽なところに、ちょいと出されたようなものだけれども、出されたからと言うて、おかげを頂けるもんじゃあないと。それは、丁度警察、ま、留置場にでもはいっとるとがです、帰りがけの人が、ちょっとどうか、警察に言うてやれば、ちょっと仮に出てこれるようなものなんだ。「ね」。これから先は、本人が助からなければいけんから、「ね」。厳正に、貴方も、私共も同じことであるならば、御霊様とて同じこと。生神金光大神のお取次ぎを頂いて、天地金の神一心に願わせてもろうて、どうぞ、御霊様も私の心の中に和らぎ賀こぶ心を頂かせてくだされ、御霊の位を進ませて下さいというて、すがり願うところから、御霊のこれからの助かりがあるのだ。私共の、信心もそれであるように、「ね」、どうぞその、億の付くような、兆の付くようなおかげを頂きたいんだけれども、その、おかげを願う前にです。億の付くような、兆の付くような、和賀心にならせて頂くことを、先ず願うのが御道の信心なのだと。生神金光大神天地金乃神一心に願わせて頂くことは、どうぞ私の心の中に、今日の御理解が、(    ?    )それが、日常生活の上に、表れていくようなおかげを頂かせて下されえ、というその願いなんだ。その願いを持って話させてもらい、願いを持って、皆さんに聞かせていただくときにです、おかげが頂かれるのであるということなんです。「ね」。そういうような意味合いを含めてです、いよいよ、御霊様のお祭りも、この23日の月次祭にあわせて、一時から執り行われます。もう、家は、御願いしとらんけんでんといっても、私の祈りの圏内に在るところの御霊様は全部お集まりになります。「ね」。ですから、本当に、例えば、玉串のお供えそこないが無いように、「ね」。それこそ、お饅頭一つでも良い、生前御霊様のお好きだった、御好物の一つも、作らせて頂いて、お供えでもさせて頂くという気持ちがです。御霊様が開放を受けられた、皆さんがお参りをされた。その、喜びと喜びとの、ここでの出会いというものをです、楽しみに、今度の23日の、御霊様のお祭りが、ご奉仕されなければならんと、こう思うのですね。それとても、やはり私自身が、真実助からなければ、「ね」。いわゆる、身の助かりは無い、御霊の助かりは無い。御霊の助かり無くして、また、私共の助かりも無い。もうそれは、同じ様なものなんだと。「ね」。どこの教会に、御願いしとったけんで、もう、御霊さんが迷うてどん、ござらんじゃろうか、家は、前は先祖代々から仏教じゃったから、もう、それこそ、昔の仏様たちが、悟り開ききらっしゃらんごと、なってらっしゃらんじゃろうかと、言ったようなことを言う人がありますけれど、さあ、御霊様の世界はです、私がどげな、思うたこつ言うたてっちゃ、皆さんは、分からんとじゃけんね。(笑いながら)どげなこつども言われよるとも、こらまあ、ほーんなごつ冗談言いよるごつすっとじゃけんど、すらごつと思わず聞いて下さい。「ね」。現に、そういう事実が在るのだから。「ね」。30名の御霊様の慰霊祭をすりゃ、30名の御霊様が、ここの、御霊を通して、私に御用させて見えるといったような事はあるのだから。それで、ほんなら、完全に助かっているというのではない。まあ、これからも、生神金光大神におすがりして、一生懸命あんたがたが願うことは、貴方の心の中に、いわば、願わん喜びである。「ね」。和らぎ賀こぶ心の生まれるところの、おかげを頂かせて下されい、という願いがです。また、そういう修行がです。「ね」。結実。いわば、みになり、徳になってくるようなおかげ、御霊の徳にでもなりゃ、私共の徳にもなってくるわけなのです。ですから、そういうおかげを頂くために、今日は、私が申しました。「ね」。お互いがです、五、ばっかりの信心してから、二十ぐらいのおかげば頂きたい。そげな虫のいいことを言わずにです。「ね」。どんな場合でも、どんなことでもです。おかげを受けられんなら、これはまだ、私の信心が足りんからだという、信心にならしてもろうて、それこそ、その日から打ち込んだ信心させてもろうて、おかげを頂かせてもらい、「ね」。前には進んでも、後ろには下がらんという、不退転の修行精神を持ってです。ただ、合理的なことばかり考えずにです。例えていうならばです。きょう、関さんがその、御祈念に参って見えてから、「もう、先生本当にありがたい、先生がいつも仰る様に、今度の総会には、今度の若先生の祝賀会には、もう、親子三人店を挙げて、おまけに、臨時休業の看板を上げてから、お参りさせて頂く」というお願いであった。なるほど、親子三人がお参りしてあった。「ね」、「ところで先生、昨日はです、どうでん毎日の売り上げ分のこっちゃ無いごと、おかげを頂きまして、お店が賑わいました」とこう言うておられる。「ね」。兎に角、いわゆる、椛目を中心で、総会を中心での考え方。そういう信心に打ち込んで行く時です。「ね」。間違いのない、打ち込みが出来ておることを、私は、分からせてもらわなければならない。如何にお参りしておりますからと言うてもです。なるほど、打ち込んでおりましてもです。それでは、私は、どぶの中に打ち込んでいるような、打ち込み方では、いっちょーん、決まらんということ。「ね」。折角ならばね、打ち込むだけにも、手ごたえの在るような、打ち込み方で無きゃいけんということ。それには、自分を中心にするのではない、やはり神様を中心にというか、親先生任せというか、「ね」、御広前を中心にといったような、在り方の中から、本当の打ち込みというものは出来るもんだと。これは、まあ、今朝の御理解に頂いたことなんですけれども、そういう、私は、焦点を間違えずに、打ち込んでいく信心でなからなければです、も、限りない信心の喜びというものが、中座するです。「ね」。もう、いよいよおかげの後先を大事にせん。おかげを頂きゃ、もう、おかげに腰掛けるです。「ね」。それでは、おかげだけで、他には、念願の花ならいいけど、花だけは咲くけど、実りにはならんということ。おかげを受けただけでは、今までの信心の中身は、空っぽになっとると言うことをです、ひとつ分からしてもろうて、「ね」。おかげは受けていかんならんけれども、その、後から後から、実感のある喜びがです、信心の中身がドンドンできていくことの修行をさせて頂くためにはです。「ね」。ほんにこの、西瓜の種どん無からにゃ、さぞよかろというような信心からです。どんなわずらわしいことがあっても、それを、修行とさせてもろうて、そのことを、実意丁寧にお陰を蒙っていくということが、私は、御道の信心の本当のあり方じゃなかろうかと、こう思うのでございます。「ね」。いよいよ御霊様の、あー、お祭りも近づいてまいりましたから、そのことを、一生懸命皆さんの、御霊様にここでおかげを頂かせてもらうときに、自分達の喜びをそのまま、自分達の信心がそのまま、御霊様に通うと思うたら、今、五、の信心をしとる人は、十の信心をしとかなければです。如何に御霊様にどげな美味しか、牡丹餅をお供えしたっちゃ、大したことはなかろうと私は、思うんです。どうぞ、おかげ頂かにゃいけません。